昭和47年11月16日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに有難そうに心経やお祓をあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節を付けたりせんでも、人にものを言う通りに拝め。」

 信心には、幸抱すると言う事が大切だと、信心と言った事では無いけれども、ここでもそれを辛抱する事それを、最近根性と言われますね。根性がいると言われる。形や形式でおかげを受けるのではない事、例えば、大祓やら心経を、ただ大きな声を出して、あげたと言う事でよいと言うのでなくて、拍手も無理に大きな音をさせると言う事には及ばん、小さい音でも聞えるとおっしゃる。
 小さい音でも聞えると言う事、まあ是はいうなら思うただけでも、思うだけでも心の中に、思うただけでも、神様には通じると言う事。まあここのところは、信心をさせて頂く者にはまず辛抱が大事である、と小さい音でも神には聞えると仰る。小さい音でも、大きな音でもいいでしょうけれども、真がなければと云う、いわゆる真心と云うのが、信心には要求される訳ですね。同時に辛抱。例えばどんなによい信心を、例えば、心のまあ美しい人が信心をすると云うてもです、辛抱が貫かれなかったら駄目ですよ。
 辛抱強い、根性はしっかりしておっても、その思うておる事、言うておる事が真が欠けておったら、それは神様に嘘を言う様なものだから、交わないとこう云う訳です。ですからもう、本気で辛抱すると云う事、辛抱強い、いわゆる辛抱の徳を身に付けると云う事、同時に、いよいよ心の内を改めて、心の中いわば、心の中で思う事も行う事もですけれども、思う事でも、神様に喜んで頂く様な事が思えれる、おかげを頂かなきゃあならん。そう云う事を、ここでは教えておられるんだと思います。
 咋日末永さんが、ここでお届けをするのに、昨日の事をですね、今朝からお夢を頂いたと。そのお夢の中に、中村喜久代さんの事が、それに中に関律夫さんが出て来たりする訳ですけれども、中村さんが中村喜久代という、とてもその当時の中村さんが、そうゆう例えば、御用は出来そうもない時に、一生懸命の御用をなさった、しかも年限を切ってそのお供えをなされよった。
 その当時私は、御本部へ月参りをさせてもらう。親先生がお出られる所には、もうどんな事があっても、お供させてもらうという事で、御本部参拝だけではなくて、どこへ参りましても付いてみえておった。もちろん、御本部参拝は、必ず月参りを欠かされる事はなかった。ある御本部参拝の時に、奥城でお礼をさせてもらいよったら、中村キクヨと言う、カタカナで書いてあります、大体は、それを漢字の喜久代と頂いた。きは喜ぶ、くは久しい代と。
 本当に熱心な信心するから、まあこれはひとつの御神格だなと思うた。カタカナから漢字になっただけですけれども、その喜久代と云うのが、喜び久しいと云うことですから。と思いよったら、神様がらこれに対して御理解を頂いた。その御理解が喜びを取ったら「くよくよ」になるぞということであった。喜久代の、きは喜びと書いてある、だから成程、一生懸命の信心によって、そんならひとつ分かり安く、云うなら神格を頂いた。一段と信心が進んだ。
 そのおかげを頂いたけれども喜びを無くしたら後は「くよくよ」になるぞと。いうなら不平不足を言うたら喜びは、消えて無くなるぞと喜久代という事にならない、不平不足があってはならないと、云う御理解を頂いた事がありましたがその事を頂いておる。是は中村喜久代さんだけの専売特許ではなくて、お互いがそうなんだだれでもそうなんだ。どんなによい信心しておっても、どんなに信心が有り難いと言いよっても、不平不足を言うたり悔んだりしたら、もうそれは喜び云うものは消えてしまう。
 是は、中村喜久代さんだけの、専売特許ではなくて、誰でもそうだと。あれは、この御理解だと、中村喜久代さんだけのものゝの様に思うておる、誰でも同じ。だから心の中に、口には言わんでも、心の中に不平不足がいっぱい、起きておる時にはです、いわゆる「くよくよ」になっておるのですから、それでは、おかげを受けられないと云う事を、私共が知らなければいけない。
 ところが私共は、言葉には出さんでも、心の中に不平不足を、思い続けておる様な事はないだろうか。また咄嗟に起きて来る、不平不足がありはしないか、そういう時に、私共が、はぁこんな事では、折角の信心が崩れてしまう。折角信心の、いわゆる信心辛抱させてもらいながら、信心辛抱の徳を受けて行きよる。その徳が無くなってしまうと思うてです、その心に感ずる、または思うたり言うたりしておる事を、改めたりお詫びをしたりする事が必要だとこういう。
 小さい音でも神には聞こえると仰るのですから、どんなに小さい事であっても自分の心の中に、感ずる事が有り難い事、有り難くない事と二つに分けるならばです、おかげの受けられる心、おかげの受けられない心、そのどっちかが有る訳です。ですからおかげを頂ける方の心、不平不足のない心を、何時も心の中に頂き止めて行く精進が必要だと云う事になります。
 昨日私、お手洗に立たせて頂いて、脇殿のお初穂のを私頂く所に、二つ硯が置いてあるのに水が空からになっておる、二つ共、水差しが大きなのが置いてあるけどそれも一滴も入ってない、まあ硯箱に、硯に水の入っていないぐらい、貧乏たらしい事は無いですね、皆さんそう思われんですか。どうして是だけ沢山の方が参ってきて、勿論あそこで整理せんのかも知れんけれども、お水を差すと言った様な心が起こらんのだろうか。庭に一杯泥が上っている。
 それで子おは、それこそ阿部野の教会じゃないけれども、舐めてもよい様に綺麗にしてあるのを見て来たばっかりですから、もうえらいそれがろくそに見える。それでお便所に行ってそれを見てその帰りがけ廊下を、たったそれだけの廊下を通らせて頂いておる間に私が思った事。結局心の中に不平不足、その今を不平不足に思うた事が、ああこげな事ではおかげにならんとこう思う訳です。ですから、どんなに例えば庭が綺麗にしてあっても硯箱にどんなに水が一杯入れてあって、墨汁がこう入れてあっても。
 其れを使う人が集って来なかったら、それを例えば泥が上がってもええ人が参って来よるからこそ庭に泥が上っておるのだから。朝綺麗にしとって誰ぁれもお参りがないなら、朝もうそれこそ、塵一つ散らかっておらんと云う様な事であっては、是は愈々淋しい事だし、ですからまぁ泥ども上がっておると云う事は、それだけやっぱりお参りが次から次とありよるから、泥が上っておるんだとこう思い変えさせて頂く。そうするとそれはお礼を申し上げる事になるというて、文雄先生だかその誰かその話した事でした。
 そう云う意味のお届けが有ったから、そう言うふうにして、自分の心はもう何時も、不平不足からではない、有り難いと言う心に、替えて行かねばいけないんだと、云う意味の事を話した事ですけれどもね。ですからそれは、どんなに小さい音でも聞えると仰るのじゃから、どんなに小さい不足不足でも神様には聞こえておる。いわば見通しでおありになると云う事ですから、ちょっと参って来てから、水が差さっとらんなら水を差しゃあいいのに、こんなむぞろくか事せんな。
 ちょっと掃わいて泥を掃わく気持ちにゃ起こらんのだろうか。こんなに修行生もいくらも居ってから、どうした気が付かん事じゃろうかと思うただけで、ここへ私が座ったんでは、その座った途端にお取次ぎを頂かれる人に、それと同じ様な意味のお届けがありましたから、そう云う生き生きとした、御理解も説いてあげる事もでない。もう瞬時でも、自分の心の中に不平不足が起こったら、是ではおかげの受けられない心である。所謂おかげの受けられる心が育っておっても。
 その不平不足だけ差し引かれる事になったら、惜しい事ですから、すぐそれこそ頭を首ち振って、ああこんな事じゃいかん、こんな事じゃいかん、と思いなおさせてもろうて、有り難いお礼を申し上げられる心に、切りかえられて行く私は、精進がいる事だと思う。小さい音でも神には聞こえる。どんなに小さい事でも、自分の心の中に感じた事がです、それが反対に、有り難い事である場合は、本当にそれが些細な事であっても、神様に喜んで頂き、感動が感動を呼ぶと云うか、こちらに感動が返って来る。
 そう云う心がおかげを頂く心である、そう云う心の精進と同時にです、神参りをするに雨が降るから風が吹くからと、こう言うておられると云う事は、いわゆる信心する者は、辛抱が大事だと云う事を説いてある。その事も、やはり末永さんが頂いておる。それがあのね、不平不足を言うな。不平不足を言うたら、クヨクヨになるぞと、せっかく喜久代の徳を受けながら、いわば、またクヨクヨのおかげの受けられない状態になってしまうぞと、それは中村喜久代の専売詩許じゃない。銘々がそうだと云う事。
 誰でも同じだと云う事。中村さんだけが不平不足やらクヨクヨになるのじゃなくて、私共も不平不足を言うたり思うたりする時には、もうすでにそこにあるものはクヨクヨなんだ。不平不足なのであるおかげの受けられない心。次には関律夫さんをお夢の中に使われて、関という事は関所の関である律夫、りつと云う事はまあ立ち上ると云う意味でしょうね。本当の意味においてのおかげがここに成就する。
 十のおかげが例えば此処に成就する時にです、もうそれは九分九厘までおかげを受けておっても、そこで座折したらもう十にはならないんだと。昨日「もうあんたが、ここで修行する様になって何年になるかな」と言うたら「もう六年になります」「もう六年にもなるの」もういうならば、合楽の信心もひと通りはマスター出来ておるはずである。ただ合楽の信心の行き方がこうだ、あり方がこうだと云う事を覚えただけではいけん。
 親先生はもう言われる時にはもう必ず、この事だけしか仰らんと云う様な事も知ってる。それを覚えただけでは何にもならん。昔の先生方のお徳を受けられた先生の所で修行した人達が、布教に出ると云うその寸前には、もう大変な厳しい修行があった。もう例えば、師匠が弟子をもうそれこそ血の涙の出るような、また場合には理不尽な事を言って、弟子を苦しめなさる。修行を鍛えなさる。
 それを見事に頂き貫いた時に「さあ明日から布教に出れ」と云う様なおかげを頂かれたと云う話を聞いております。まあここの場合は、私がそう云うふう申しませんから、神様がそれと同じ様な働きをして下さるのですから、ここが関所と言う所を、ここがもうそれこそ云うなら心の関だと思う所、もう此処から辛抱が出来んと言う所、その所を所謂律夫さんです。立ち上がって、そこを越えさせて貰わなければ、所謂神様の十のおかげにならんのだと、せっかく七・八分まで来とりながら。
 後一つ二つで何時もまた元に逆戻りで、堂々廻りをしておる様な事はないだろうかと、もう実を言うたら皆さんの場合、それが多いのに驚くくらい。そりゃ今頃から言うその決心が、本当に出来てないからじゃないかと。こりゃ教祖様のお伝記を見せて頂きましても、教祖様の御神格が次々と進まれてもうそれこそ、生神金光大神と天地金乃神様から御神号を頂かれ、神様が一礼申をすと仰る程しの素晴らしい御信心、御神徳に進まれたと云うのはね、ほんなわぁずかな年限ですよあの年限は。
 もう読んで何年ですか二、三年くらい、かかっておられるでしょうか。ですからもう私共がですね、例えばもうその事に、もう取り組んでしまっておったら出来ん事はない、例えば私の修行中に、例えばどう云う事であっても、受けると云う事に決めさせて頂いたらもうその、決心が出来ておるから受ける、とか受けないと言った様な事は全然ない。もう受けると云う事に決めてしまっておるのだから、一切が決心なんです今から考えても、それがひとつも難しかったとは思えなかった。
 必ずおかげを受ける。言わばもう愈々峠と云う時には、やはりもう息が切れる様にきついのと同じ。もうきつうなった時には、いよいよもうすぐそこに、いうならば頂上がある時だと分からせてもろうて、そこの関を乗り越えさせてもろうた所におかげがあるんだという、お夢の中にお知らせを頂いておる。惜しいでしょうが、折角十を目指しておる。それに七、八、くらいの所でです、また元の所から振り出しに戻って、また繰り返し繰り返ししておる中にです。
 まあ繰り返し繰り返しの、おかげは頂きよりますよねえ。健康の事を願や健康のおかげも頂きよるし、金銭のお繰り合わせを願や金銭のお繰り合わせも頂きよる。それだけの事。もう健康のおかげ等は願わんでも済む、金銭の事だけはもう願わんで済む程しのおかげに、飛躍して行かなければいけないでしょうが、おかげのいうなら飛躍とでも申しますか。本当のおかげの世界は、跳躍するおかげを頂く為には、私共がそこんところを、頂き抜かなければいけない。
 そこんところがです、雨が降るから風が吹くから、どんなに例えば雨風と思われる事に直面してもですもうお参りするんだと決めておったらお参りし抜かにゃいかん。いやそう云う時に程、かえって有り難いものが頂けれるんだと云う事。どうしようかと迷う様な時に、そこを信心に分切せて頂いた時に、ああ辛抱してよかった、又はだからこの六十八節は、今日私はその二つの事を、教えておられると思うのです、辛抱の徳。だからその辛抱の所に、いわば根性がいる訳です。
 けれどもそこんところをし抜かせて頂くと、それがひとつの徳と云う事になる。辛抱の徳になる。そうすとその事はもう辛抱せんでも済む。只あるものは、有難いものだけだと云う事になるんです。辛抱の徳とは、そう云う物だと思う。信心をさせて頂く大事な事は、そういう辛抱、例えば信心辛抱、信心辛抱というけれども、信心辛抱し抜かなければ、信心辛抱にはならんと云う事。ここまでは辛抱するけれども、是から先は辛抱出来んというのは、辛抱じゃないと云う事。
 そこに信心辛抱の所謂辛抱こそ、身に徳を受ける修行と云う事になる。そう云う修行させて頂きながら、なら私の心の中に感ずる状態、こう小さい音でも神には聞えると云う事は、是はね、自分の心の中に感じたり思うたりする事だけ、しただけでも神様には聞こえるのです。神様に響くのです。ですから有難い事を例えば思わせて、ふっとこう思わせて頂いたら、神様に本当に交うた感じがする。感動が湧いて来る。
 そう云う例えば、日々の上にどれほど感じるか分からない。私が一つの例で、何時も言う様に、何時でしたか、お風呂に入らせて頂いた。そらもうすそ風呂に入らせて頂きましたら、もうてんでいっぱいひき散らかして、片付けてない。「誰が入ったじゃろうか」と思うたら家内が入ったと。それでも、私の心が隠やかである時には、それがね、その人の後でも、綺麗に流したり洗うたり、又はいろんな小道具でもきちんと片付け、て上がって来ると言う事。
 家内の使う道具が置いてある。そげん時、にちょっと私の心の中に、まぁひとつ口上言う代わりにですね。家内があんなに背が小さいでしょう、だから高か所にいっちょ上げとこう、そうすると分からん、取りきらん。そん時に「はあ自分がろくそにしとったなあ」と云う事が分かる様に、高い所に上げとこう、と云う様な心では、おかげの受けられない心ですよ。それはどんな都合であって、まあそこがろくそにしてあっても、それを綺麗にさせて頂ける事が有り難い。
 しかも置いてやるなら、せっかく置いてやるなら、家内の届く所に置いてやろうと、云う様な心の状態の時におかげが頂ける。もうそういう時においさみがあったり、そこでまたはそうゆう心に、神様が感動しなさるかの様に感動が返って来たりする。その楽しみが信心は有難いのです。ですからその感動が起こって来る。感動が湧いて来る程しのおかげが頂かれるものをです。それとは反対に今申しますように、又こげなろくそな事せんごと「いっちょ、にくじゅうでん上の方へ上げとこう」と言った様な心ではね。
 これは云うなら、折角のおかげでも崩してしまう、心になるのです。もう些細な些細な心なんです。「はぁもう、ぬぎ散らけえてから下駄でん何でん、こげんして上がって」と云うてそれは揃えた所でです、それは信心じゃないです。揃えさせて頂く事が有り難いと思うて揃えなければおかげにゃならんです。そう云う例えば、厳密な自分の心の状態というものを、何時も見極めさせて頂く様な心の状態。
 そう云う心、が神様に聞こえると云うのです。神には聞こえると、神様がそれを見逃しなさらん、それがおかげの受けられる心。昨日はこれも末永先生がところの、御爺さんにあたる、壱岐の教会の初代教会長先生の昨日はお立日であった。立ち日のもう四十四年になられる、亡くなられて。それがお立日に必ずまあ、なけなしのお金で、色々とお供え物を整えさせて頂いて、そしてまあ四時の御祈念に併せて、御挨拶をしてくれとこういう事があったから、夕方四時の御祈念に併せて奉仕させて頂きました。
 弟さんの紀久男さんも、今日田におりますから参りまして、それから田主丸の信司郎さん達夫婦も、親子三人連れで参ってもうささやかながら、所謂それが式年祭というのじゃないです。只お立日だとゆうけれども、本当にこう言うふうに思いを込めさせて頂いてね、思いを込めさせて頂いて霊様に御礼を申し上げる。しかしそれが信心ですよ。昨日もちょっと久留米にお供え物買いにやらして頂くと云うて、帰って来てからです。
 バスに乗らせて頂いたら途端にラジオから壱岐のね、壱岐対馬と云う壱岐です、壱岐の人ですから壱岐の何か、説明がラジオから響て来たとこう云うのです。もう本当にそこにお祭りと云う訳ではないけれども、御爺さんの霊様にあれこれと、甘い物がお好きだったげなけん、甘い物の一つも買わせて頂いてと云うて行きよる。その心にもう霊様がそこに働いて御座るものを実感する訳なんです。
 だから私、昨日、そのことを聞いてもらったんです。信心させて頂いて、御神前にぬかずかせて頂く、御祈念させて頂くと云うことは、自分の心の中に、思うておることでも、心の中に口にとなえ願いであっても、神様がそれを、いちいち聞き届けておって下さるほどしの、おかげを頂かなければ、信心している値打ちも、御祈念しておる値打ちもないと、私は申しました。
 ただ、片便の願い捨ての様な願いを、がむしゃらにするだけではなくてです、霊様でもそうです。霊様に、例えばその甘いものがお好きだったから、辛いものがお好きだったからと、例えば甘な辛なのひとつも準備させて頂い、て霊様にお供えさせて頂く。そこにです霊様のお喜びやら霊様のお苦しみやら霊様の悲しみやらがです、伝わって来るほどしの御祈念でなからなければ、私は信心の値打はないと思う。
 御神前に出て、御祈念をでさせて頂いて、自分が申し延べさしておる事が、神様がひとつひとつうなづいて、おって下さる様な心の状態になるから、ご祈念させて頂くことの有り難さも、又は心に安心も頂けるのですよ。ただ願うとけばええ頼んどきゃえ、と言った御祈念じゃそれじゃ御祈念の値打ちはない。そう云う例えばおかげを頂く為にもです、今申します様に小さい音でも神には聞えると仰る。所謂自分の心の中に小さいささやかな音であっても、思うておる事が行うておる事がです。
 神様に喜んで頂く様な事を何時も思い続けておると言った様な信心からしか生まれて来ないのです。そういう心の状態で神様に向かう時にです。願いなら願いというものを神様が、いちいちこちらが言いよる事を合点して、聞いておって下さる様な実感が生まれてくるものです。だからどうでも小さい音で、も神には聞えると仰るところをです。不平不足ではない、それとは反対の心をもって、神様には向かわねばならない。
 霊様には、向かわなければならないと云う事が分かります。そう云う事柄と同時にです、神参りをするに雨が降るから風が吹くからと、いわゆる関所です。どう云う雨の関があろうが風の関があろうがそこに立ち上がって、そこを乗り越えて行こうと云う、いわゆる根性がです信心には必要だと。そこんところを、通り抜けさせて頂いている内に、いわゆる、根性の徳とでも申しましょうか、辛抱の徳とでも申しましょうか、その辛抱こそ、身に徳を受ける修行と云う、おかげが受けられる。
 ですから、信心には、この二つがどうでも必要だと、そしで私共がです、本気でその事を、そう云うあり方に、ならせて頂こうと云う決心を、しなければいけません。今日も、一日です、不平不足は言うまい思うまい。けれども言おうとしたリ、また心の中に不平不足が起きて来た時には、それこそ、頭を打ち振っで、その不平不足の心を取り除かせてもろうて、そしてその事に、お礼申し上げられる様な心。
 それは例えば嘘にでもよいからお礼の言えれる様な心。昨日桜井先生でしたかね、桜井先生が、先日の御理解の中に、嘘にでも喜べと仰ったと、あれはどう云う様な事でしょうか。と云うお伺いがあったんですねえ。もう何回目かの、お参りの時でした。それを私が、便所に立たして頂いて、庭が散らかっておると云う事、どうしたろくそな事じゃろうかと、思わんじゃなかった。
 けれども、そう云う思い方では、おかげにならんと思うて、そこのところから廊下を通る間には、もう私の心はむしろ反対に、お礼を申し上げる心が、出来ておったという。だからあのう、嘘にでも喜ぶと云う事はね、だから本当に喜べたら尚いいけれども、例えば、そう言うふうに思いを変えさせて頂いてです、真からの喜びが湧かないにしましでもです、不平不足を言う心がなくなって、「本当考え様じゃ、これは反対にお礼を申し上げねばならんこったい」と言う所までくらいは。
 心を切り替えて行かねばならんと云う事を、桜井先生に聞いて頂いた事でしたね。ですから、そう言う風に、何時も自分の心と云う物を、見極めさせて頂いておくと云う事は、別に持荷にも、重荷にもならない事なんです。そこに何時も心掛けさせて頂いて、そう云うこの行き方で、行こうと云う決心をする事だけなんです。だからそれだけでは、又いけん、信心にはどうしても辛抱が必要だ。でないとこの関所を越えなければです、例えばね、いくら九と云うて置いても、十ではないのですから。
 もうひとつ行かなければ、十にはならんのですから、十のおかげを頂く為には、そこから辺から回れ右して、また元のところから、直す様な事を只繰り返し繰り返し、しとるのではなくてです、一つ本気で信心辛抱というか、その関を越えさせてもらう、元気な心というなものを奮い立て、ておかげを頂きますとです、はぁ辛抱し抜いてよかったと云う喜びがある。それが度重って行く内にです、身に徳を受ける修行じゃ、所謂信心辛抱の徳が受けられると云う事を、今日は聞いて頂きましたですね。
 信心には、どうでもこの二つの事が。辛抱の事と、いわゆる自分の心の中に、どう云う小さい事でも、神様は見逃しなさらない。もう信心程、誤魔化しの効かん物はないです。だからもう、絶対正確無比のおかげが受けられると云う事も、又言える訳なんです。神様は妥協なさらない。ならそう云う事は難しい事かと云うと、そうではなくて、その事に精進させてもらうと、その事が有り難うなり楽しゅうなって来るのですよね。
   どうぞ。